“大衆のため”からスタートした、ドイツ車の軌跡

「ビートル」「ゴルフ」など個性豊かなラインナップで知られるドイツの自動車メーカー、フォルクスワーゲン。その始まりは第二次世界大戦前に遡る。1937年、国民車の開発を旗印に国営企業が設立されると、一般大衆へ向けた車の開発が始まった。戦後に発表されたビートルは、それまでにないスペックとデザインが好評を博し、国内はもとより瞬く間に世界へと広がった。「大衆のために」からスタートしたドイツ車メーカーの軌跡を辿ってみたい。

国策として自動車開発をスタート

 第二次世界大戦前、ドイツにおいて自動車は富裕層のステータスシンボルに過ぎなかった。米国やフランスで大量生産が進む中、ドイツでは小規模な生産が行われており、一般大衆と車はかけ離れた存在だったという。そうした社会背景の中、ドイツは国営企業「ドイツ国民車準備会社」を発足。社会への自動車普及を目指したのである。
 設計を担当したのは、フェルディナンドポルシェだ。後にポルシェ社を創業する人物である。さまざまなテスト車の開発を経て、ポルシェが開発した「ビートル」は驚異的な性能を誇った。時速100キロで大人3人と子供2人の乗車を可能にし、ハイパワーながら低燃費を実現。高い性能と低価格を両立したのである。終戦後は時を待たず量産が開始され、ビートルは市場へと登場した。

ドイツが誇る国民車、世界へ拡大

 走行性能が良く、経済的で故障の少ないビートルは大衆の支持を集めたことは言うまでもない。そしてドイツ国内だけでなく世界各国に輸出され、外貨獲得などドイツの復興にも大きな役割を果たした。そうした市場の反応を受け、フォルクスワーゲンはラインナップを拡大。ワーゲンバス、スポーツクーペ、セダンタイプ、4ドア・ワゴンなど、1950年代から60年代後半にかけ多彩なモデルを発表する契機となった。
 世界進出への足掛かりとなったビートルは、1955年に製造台数100万台を突破すると、1961年に500万台、1967年に1,000万台と人気を不動のものにしていく。1988年には2,000万台という驚異的な数字を達成し、日本では現在のヤナセ自動車が1953年から販売を開始。1983年には日本法人フォルクスワーゲン株式会社(現:フォルクスワーゲングループジャパン)へと販売をバトンタッチした。現在では200カ所以上の国内拠点で事業を展開している。

新たな大衆車を市場へ

 1970年代に入り、フォルクスワーゲンはニューモデル「ゴルフ」を発売した。ビートルに続く新たな「大衆車」の誕生である。駆動方式をフロントエンジン・フロントドライブへと転換し、外観は工業デザイン界の巨匠ジウジアーロが手掛ける鋭角的なものに一新した。スタイリッシュなゴルフは市場の人気を獲得。販売から3年を待たずに生産100万台を突破し、ビートルに代わりラインナップの中核を占めるようになっていく。日本でも人気を博したゴルフは、2004・2009年に「インポート・カー・オブ・ザ・イヤー」を、2013年には輸入車として初めて「日本カー・オブ・ザ・イヤー」を受賞している。
 2002年には全世界での販売台数が2,100万台を突破するなど、ビートルの記録を塗り替え新たな大衆車の地位を不動のものとした。

電動化とその先へ

 そして2020年、フォルクスワーゲンは欧州市場に次世代EVモデルを投入し、電動化に舵を切った。2023年にはカナダでのEV用電池生産工場建設を発表し、米国ミシガン州に研究開発施設を設立。中国の新興電気自動車(EV)メーカーの小鵬汽車へ7億ドルの出資を行った。国内の大手印刷企業と新たな蓄電池セルの開発を進めるなど、国内外企業とのネットワークも着々と築いている。今後も脱炭素化に向け、2028年までにブラジルで約2,700億円の追加投資を行う予定だという。
 「グループの強みはブランド力」だと、CEOのオリバー ブルーム氏は株主に向けたメッセージの中で述べている。魅力的でユニークなモデルのラインナップはフォルクスワーゲンが受け継いできたDNAの一つだ。そして2019年に2,500憶、2020年に2,200憶と、減少傾向にあった売り上げ収益は徐々に回復。2023年には3,200億円を超えた。今後も電動化に注力しつつ、フォルクスワーゲンの原点である「大衆のための車」というDNAを受け継ぎながら、すべての人々が使いやすいクルマ作りの追求は続いていくだろう。

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